1998 年1~3月は、イラクが大量破壊兵器に関する国連の査察の受け入れを拒否して国連との間に摩擦が生じ、アメリカ側はイラクへの軍事行動を計画するなど世界が揺れていました。反発したイラクは報復攻撃として、イスラエルのエルサレムに向けて毒ガスロケットを打ち込むと宣言していました。

日本の新聞にも「エルサレムでは攻撃に備えて、防毒マスクをめぐって配給所で争奪戦」なんて記事が踊っている時期でした。

そんな緊張高まる2月のエルサレムで、私たち在住の主婦6人は集まって、お茶を飲みながらこんな話をしていました。インドネシア、ドイツ、日本など出身国は様々です。

「防毒マスクって7時間しか効果がないのよ。子供は蒸れるとはずしたがって1時間も着けていないわ。」

「ガスは比重が重いから地下室に避難するのは余計に危ないわよね。」

「完全に外部と遮断された空間を作るなんて普通の家では無理よね。」

「それより、毒ガスで空気や水が汚染されることになったら野菜や飲み水はどうすればいいの。」

私はご主人が国連関係者という一人に尋ねてみた。

「ところで防毒マスクって持ってるの?」と。

「前回の湾岸戦争の時に主人に配布された1つがあるわ」という答え。でもその後子供が生まれて彼女は今4人家族。家族全員分はない。

私はエルサレムに住んで3年目。湾岸戦争の頃のイスラエルは未体験。

別の日子供の同級生の母親であるアメリカ総領事夫人と話をした。彼女いわく

「防毒マスクは子供たちの分だけ配給されたわ。私たちの分はないのよ。でもマスクだけではだめ。プラスチック製の防護服がいるのよ。でもそんなもの用意してないわ。」

アメリカ総領事夫人でさえないと言うのだから本当でしょう。我が家にはもちろんマスクも防護服もない。

しかし子供の学校からの連絡には「現在のところ特に心配はありません」とある。

実際街の人たちも何事もなくとても普通に暮らしている。私も毎日子供の送り迎えをし、買い物をして、テニスもしている。毒ガスロケット攻撃という言葉が報道される中、一人ひとりの市民は普通の生活を送っていた。そして幸いなことに実際に攻撃はなかった。

ところで茶飲み話の続きの話題は、その当時2月7日から22日まで開催されていた長野オリンピックの話に移っていった。そう1998年前半、私たちエルサレム在住の人間は意外に冷静だったのです。

著者プロフィール : 石田 恵子 (いしだ・けいこ)

1995年から1998年まで、夫の転勤に伴いエルサレムに滞在。現在埼玉県在住の主婦。