なんとなく空気が重くなってくる。周りを覆う土の匂いが肌に入ってくる。心は多少わくわくするが、でも、とりあえず家の中にいたほうが安全だろう。最後の雨が降ってから7ヶ月近く。待望の雨はポツポツ雨で、とにかく茶色い。

「正月」(9月)が過ぎ、「大贖罪の日」「仮庵の祭り」が終わると、そろそろ一年最初の雨が降る。半年以上。一滴の雨も降らない。空は真っ青、高いところに小さくちぎった綿のような白い雲が見えることもある。乾季の間は、どんなに空を見上げても、雨は降らないのである。

小学校高学年で、雨季と乾季のある地域のことを習った記憶がある。でも、一年中、今日は降るかな、明日は降るかなと、お天気マークを気にしている日本では、実感としてこの二つの季節の違いを理解するのはむずかしい。

イスラエルは典型的な地中海性気候で、乾季は夏だ。学年の変わり目になるイスラエルの夏休みには宿題はないが、たとえあったとしても、天気の記録をつけることだけは意味がない。お日さまシールの顔をニッコリからテカテカ、ギンギラ、怒り顔まで変えていくなら多少の変化はあるだろうが・・・。

乾季には絶対に雨は降らない。どんなに大地が乾いてひび割れても、水源地であるガリラヤ湖の水位がどんどん下がってもどうしようもない。ひたすら雨の季節の到来を待つばかりなのだ。その兆しを運んでくるのが「仮庵の祭り」だ。

本来は4000年も前に出エジプトをしたイスラエルの民が40年間砂漠をさまよい、仮庵に住まったことを記念する1週間続く祭りなのだが、「仮庵の祭り」は同時に夏の終わりの収穫祭的色彩をも持つ。ざくろ、ぶどう、いちじく、大麦、小麦、オリーブ、なつめやしなど聖書に出てくる7つの代表的な植物をはじめ、多くの植物が実りをもたらす時期だ。

乾ききった自然の中でどうして植物は育つのだろう。これこそ自然の逆説だ。雨がないからこそ、植物は自らの命の源であるすべての水分と栄養分をその実に移行させ、種として自らの子孫を残そうとするのだ。

乾季には熱気に包まれた真昼と急激に冷える夜の温度差が朝夕に少量の露をもたらす。その恵みの露を最大限に取り入れ、植物は実を太らせていく。こうして素晴らしい甘味を内に秘めた果物の出来上がりとなる。

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収穫が終わる頃、雨が降る。雨が降ると植物がいっせいにホッとして、これまで体力を節約して伸ばさなかった木の枝や葉がさらに広がり、新しい芽を吹き出してくる。黄色かった大地が日に日に緑に変わっていくのが、この雨季の始まりの季節だ。何もなかった道端に青味がかった雑草が芽吹く。10月は新しい命の始まりの季節なのだ。

最初に降る雨は空気中にある土ぼこりをすべて洗い流す。ついでに木々にたまった砂や建物を覆うほこりを流してくれる。だから、この雨に当たると体中が土臭く、洋服も雨あとがシミになって残ってしまうのだ。次からの雨はシャワーのように激しく降る。

雨季といっても毎日雨が降るわけではない。雨が降る可能性のある季節を雨季というのだ。しとしと降る日もあれば、にわか雨もあり、また冬も厳しくなると大嵐に変わる。年間総降雨700?程度、砂漠のベエルシェバでは200?しかない。日本の1700?以上に比べればいかに少ないかがわかる。

四季のはっきり分かれる日本と異なって、イスラエルには乾季の夏と雨季の冬という二つの季節しかない。秋と春は夏と冬が交互に入れ替わる季節と考えればよい。

夏の日の次に冬が数日続き、また夏の日に逆戻りという過程を繰り返し、冬に入る。だから、風邪をひくのは秋と春が一番多い。

さあ、これからは緑も深い冬に入る。

参照

  • 「月刊イスラエル」2000年8月号に掲載

著者プロフィール : 辻田 真理子(つじた・まりこ)

1971年同志社大学を卒業し、ヘブライ大学留学。テルアビブ大学、ヘブライ大学で日本の政治と現代史を教える。2007年帰国し、現在伝道師。