私は京都で育ったので、高原には縁がない。日本では上りがあれば、下りがあり、頂きに向かって上っていけば、その先は上下に視界が広がるのが常識だ。しかし、ゴラン高原は様子が違う。ガリラヤ湖からどんどん坂を上っていくのだが、頂上に上ったかの感覚を持って行き着いた先は、見渡すばかりの草原で、視界は水平にしか広がらない。円錐の上の部分がスポッと切り落とされたかのように、平らな草原が地平線まで広がっている。
2月から4月まで、冬の雨のお陰でゴラン高原はお花畑に変身する。一面が緑の牧草地になり、そこに春菊、水仙、クロッカス、アネモネ、けし、ルピナスなど赤、黄、紫など色とりどりの野生の花が咲き乱れる。
そんな一日、ガムラ自然保護区を訪ねた。ガムラはゴラン高原の中部に位置している。1967年イスラエルがシリアから占領したこの土地を調査する段階で、タルムードにも出てくる町ガムラの遺跡が1968年に発掘された。
紀元67年、7ヶ月にもわたるローマ軍の攻勢でガラムは陥落した。住民の一部は逃れて後にマサダに合流し、残りはローマ軍の手に落ちるのを怖れて、集団自決したとされている。それ以降、1900年の間、この町に人が住むことはなく、再び町が築かれることもなかった。
ガムラの遺跡にはローマ軍が攻撃に使った石の砲弾や、鐵の矢じりなどが大量に残っており、シナゴーグの跡もきれいに見ることが出来る。ユダヤ史的にはガムラ遺跡は重要な意味を持つが、この自然保護区がすばらしいのはやはりその自然だ。
空だけしか見えない草原を歩いていくと、突然パクッと地面が口をあけたように、厳しい断崖から渓谷が下に広がっている。改めてここが高原なのだと気づく瞬間。
冬の間、激しい水が地面に割れ目を作り、さらに広がった断崖には面白い玄武岩の自然の彫刻が見える。いくつもある滝の一番高いもので51メートルほど。日本の滝とは比べられないが、水の少ないこの地域では大きな滝である。
普通、滝は下から眺めるものだが、ここでの滝は足元が出発点になる。平原の間を縫って水を集めた地下水と小川が、裂け目のところで下に向かって一挙に噴き出すのである。滝つぼもたいした川もないから余計に奇妙な感じを生み出す。さらに断崖のあちこちにイスラエルでは珍しいコンドルの一種や大鷲の巣が見える。羽を広げれば3メートル近いものもあり、上空を舞っている景色は壮観である。
足元から断崖が広がる経験は、イスラエルの南部にある大断層でも出来るが、ここの景色は荒野の厳しい岩の世界でなく、断崖から広がる渓谷が緑の草原になっているのに特色がある。
その渓谷の幅が広がったところに、中ノ島のような形で突き出した丘があり、そこに先述のガムラの遺跡がある。ガムラに行くには断崖の這って続く細い険しい道を下り、そのあと、渓谷の真ん中に出来た山の上の古代の町まで登っていくことになる。この渓谷はガリラヤ湖まで黄緑の帯になって続いていく。
イスラエルが占領しているこの高原には、現在畑が開墾され、広いブドウ畑や各種果樹園、野菜畑が広がっている。ヨルダンと平和条約を結んだときに国境周辺の土地でヨルダン領に入ってしまった畑などについては賃借料を払ってそのまま耕作を続ける合意が出来たが、シリアに返還する時にはどうなるのだろう。
底抜けに明るい青空を眺め、一面の草原を目の前に、中東地域が一つの経済圏になる日を一瞬夢見た。ヨーロッパのように国境が意味を持たない時代が来るのだろうか。だが、そんな大それたことは考えないで、とりあえず今は、イスラエルが周辺のアラブ諸国と平和条約を結び、パレスチナとの二国共存を確立し、互いは不干渉という冷たい平和状態を築くことのほうが先決問題だろう。
それぞれの国民が宗教的、文化的、経済的、政治的に自国内で自己実現できることが、まず、最初のステップだから。
参照
- 「月刊イスラエル」2005年2・3月合併号に掲載
著者プロフィール : 辻田 真理子(つじた・まりこ)
1971年同志社大学を卒業し、ヘブライ大学留学。テルアビブ大学、ヘブライ大学で日本の政治と現代史を教える。2007年帰国し、現在伝道師。