一度はイエスが生まれたベツレヘムでクリスマスを祝いたいと、普通のクリスチャンは考える。マリアが受胎告知を受けたナザレはイスラエル国内にあるが、1967年まで、イエスの生まれたベツレヘム、イエスが十字架にかかったエルサレム旧市街はヨルダン領西岸地域にあった。
イスラエルがこの西岸地域を占領したことによって、聖地巡礼は一挙に盛んになった。キリスト教の重要な聖地を一括して回ることが出来るようになったからである。エルサレム市街、ベツレヘム、エリコなどの土産物屋は急に活気づいた。
クリスマス当日は全世界からクリスチャンが集まり、ベツレヘムは人で一杯になった。聖誕教会の前の広場には大きな舞台が作られ、礼拝堂に入れなかった人たちは巨大スクリーンに映される聖誕教会でのクリスマス礼拝の様子を見て感激した。
世界から集まったさまざまなグループが舞台に上がり、讃美歌を歌い、踊った。広場にある木にはすべて電飾がつけられ、クリスマスの雰囲気を盛り上げていた。だが、その盛況はこの地域の人々の合意の上に出来た真の賑わいではなかった。
こうした状況が変わってきたのが、占領地の抵抗運動が激しくなってきたころからだ。特に2001年第二次インテファーダが始まってからは、安全が確保できないということで、クリスマスですら観光客や巡礼者が激減した。
そんな中、2005年のクリスマス、友人が東エルサレムにある聖公会主催のベツレヘムでのクリスマス礼拝に参加するという。早速私も参加申込みをした。12月24日、小雨の降る、とても冷たい夜。6時ごろに教会に集まって、70人ほどが2台のバスに乗り込み、ベツレヘムに向けて出発した。エルサレムからは15分程度の距離。
イスラエル側の検問所では銃を持った兵士が乗り込み、車内をチェック。全員の名簿はすでに渡してある。その後、サンタの帽子をかぶった女性の兵士が、緊張したバスの雰囲気を和らげるかのように「メリー・クリスマス」と場違いな陽気さで、菓子の入った袋を乗客全員に手渡した。
分離壁をすり抜けて到着したベツレヘムは閑散としていた。広場に特設舞台は造られているものの、集まっている人々はごく少数。木々の電飾の数も少なく、町全体が暗い。聖誕協会のカトリック礼拝堂で行われる恒例のクリスマス・ミサに出席する人の数も少ない。
私たちは聖誕教会横の路地から敷地に入り、銃を持ったパレスチナの警備兵のチェックを受けて、石造りの狭い通路を通り抜け、ギリシャ正教の小さなチャペルに入った。ギリシャ正教のクリスマスは1月7日になるので、聖公会に礼拝場所を提供してくれたのだ。
冷たい石の会堂で礼拝が始まった。オルガンの伴奏もなく、聖書を朗読し、素朴に会衆が賛美を繰り返す。その素朴さの中に2000年前の羊飼いたちのクリスマス礼拝に思いを馳せた。最初の羊飼いたちは天使の祝福を聞き、喜びにはやる心を持って、自由にここにやってきた。だが、私は讃美歌を歌いながらも、銃の下にある礼拝という現実の前に、重い心を完全にぬぐわれることはなかった。
突然、パレスチナ自治政府議長アッバスがチャペルに入ってきた。クリスチャンとの共存をアピールするため、アラファト時代からカトリックのクリスマス礼拝に議長が出席するのは恒例だ。その前に聖公会にも敬意を表そうという外交的配慮が彼をこの礼拝に招いたのだろう。小さな礼拝にも政治は土足で入ってくる。
政治と切り離された形で宗教的行為が出来るというのは、すばらしい贅沢だ。そのためには宗教の自由を確保できる安定した政治的枠組みが不可欠である。この地域では大きな犠牲があまりにも長い間重ねられている。それぞれの正義はあるだろう。自己の存在を守るために武力が必要だというのも、それなりの説得性を持つ。だが、それでは「平和」は得られない。どんなに悪い「平和」でも戦争よりはいいはずなのだが。
参照
- 「月刊イスラエル」2000年8月号に掲載
著者プロフィール : 辻田 真理子(つじた・まりこ)
1971年同志社大学を卒業し、ヘブライ大学留学。テルアビブ大学、ヘブライ大学で日本の政治と現代史を教える。2007年帰国し、現在伝道師。