金曜日になると何となく空気がざわめく。安息日前の準備に走り回るからだ。一昔前の日本の大晦日を想像してほしい。それの小型版だ。安息日は金曜日の夕方から始まる。だから、金曜日の午後になると店が閉まり始まる。ユダヤ教と関係ない人間も、用事と買い物はそれまでに済ませておかねばならない。スーパーは人でごった返し、町中はどこも交通渋滞になってしまう。ユダヤ教の熱心な人々は、安息日に入るまでに料理も掃除も片づけも、何もかもし終わらねばならいので、なお忙しい。

安息日は一切の労働を休む日だ。会社、商店、娯楽場などはもちろん、公共の交通機関も止まってしまう。宿題もないし、家に仕事を持ち帰ることもない。人間らしく過ごせる非日常の一日、天下御免の誰も働かない日というのは、非ユダヤ教的人間にとっても実に気持ちがいい。それは、家族団らん、親しい友人たちと語らう一日でもある。

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安息日の始まる前、すでにテーブルには白いクロスがかけられ、食卓に座る人の数だけお皿が並べられ、花がきれいに飾られている。サイドボードの上には安息日を迎えるろうそくが二本。夕暮れとともに一家の女主人がろうそくに灯をともし、目を両手で覆いながら、安息日の天使を迎える祈りをする。祈り終えて目を開けると、ろうそくが輝き、安息日がスタートしていることになる。

宗教的な家庭では男性たちはそれぞれ正装をしてシナゴーグへ祈りに行く。女性や子供たちもそれに続く。安息日の食事に招待された場合には、相手が宗教的な家庭であれば、男性たちがシナゴーグから帰ってきた頃合いを見計らって訪ねる。ワインや花をおみやげに持っていく場合もあるが、安息日には紙を破ることも労働と見なされ禁じられているので、花などはすぐ花瓶にさせる状態で持って行くことになる。

席に座るとすぐ、ワインの祝福。アシュケナジーかスファラディかによって、立って祝福をするか座ってするかは異なる。何家族かが同席しているときは祈り用のグラスが家族分用意され、主人の祈りのあと、それぞれの家長が自分の家族用のグラスで祈りワインを回し飲みする。水を汲んで器から流し、片手ずつ洗っていく。神妙に手を洗うとまるでお茶席に入る前の気分だ。

ワインの祝福からパンの祝福の祈りが終わるまで、一家の主以外の人は口を開いてはいけない。待ちきれない子供が何か言ったりすると、口をつぐんだまま、身振り手振りとハミングで意思疎通をさせているのはとてもユーモラスで和やか。全員が再び席に着き、主人がパンを取って祈りをはじめる。パンは切り分けられ、聖別の塩をかけて全員に配られる。

これらの儀式が厳粛に行われるのかというと、決してそうではない。すべての手順は間違いなく行われるのだが、整然という概念からは程遠い感じもする。

日本人は型があれば、それにきちんとはめて儀式を行うことに満足感を感じる。これは一種の美意識で、雑然とことを運ぶくらいなら、やらないほうがいいとまで感じてしまうのではないだろうか。

ところが、イスラエルのユダヤ教の、少なくとも私が知っている儀式は、型があって型がないように感じられる。型を認めていながら、型にはまることを拒否しているかのようだ。ユダヤ人のユーモア感覚なども根っこはこの辺にあるのだろう。

安息日の食事の定番は、鶏のコンソメスープ、ゲフィルテ・フィッシュという鯉のすり身をスープで煮たもの、肉料理にはビーフや鶏のローストや煮込み。それにサラダ、野菜の煮物などがつく。

料理が台所から運ばれてくる間や、一息ついたときには、安息日の伝統的な歌が唄われる。その歌がまた、セーブすることを知らない大声なのだ。

参照

  • 「月刊イスラエル」2002年5月号に掲載

著者プロフィール : 辻田 真理子(つじた・まりこ)

1971年同志社大学を卒業し、ヘブライ大学留学。テルアビブ大学、ヘブライ大学で日本の政治と現代史を教える。2007年帰国し、現在伝道師。