電話がかかってくる。また、慈善団体からだ。ユダヤ教でもっとも大切な祭りとも言える「過ぎ越しの祭り」を前にして、祭りの食事を用意できない家庭に食材を配るための寄付依頼だ。ラジオ局が食料品を集め、配布するという。ある銀行が備え付けの箱を置いたので、食料品を入れてほしいと訴える。スーパーに行けば入口に必ずボランティアが立っていて、寄付を頼まれる。家のインターホンが寄付のために一日何回も鳴る。

2002年ごろから、テレビの報道番組で、食事が満足に食べられない人々を対象に食事を提供しているボランティア団体のことなどがよく取り上げられる用になった。善意の寄付金や生鮮食料品店の売れ残りを譲り受け、慈善食堂が作られる。そこにはこれまでには見られなかった身なりの整った老人たちの姿がある。

建国のために働き、この国の経済を支えてきた年代の人々だが、引退後年金カットで切り詰めても切り詰められなくなって食堂に一日一食を食べに来る。軍服を着た義務兵役の青年が目立たないように隅で食べた後、なべに食事を入れて持って帰る。軍隊にいる間はいいが、休暇で帰ってくると、家には食べるものが無く、家で待つ小さい弟たちの分だという。

福祉国家だったはずのイスラエルに何が起こったのだろう。1999年に、11年ぶりにイスラエルに来た私は郊外に建つ立派な邸宅群に目を見張った。まるで、日本のバブル期のように人々は贅沢な生活を追い求め、車が町にあふれている。日本のモールも顔負けの大型ショッピングエリアがあちこちに造られ、派手なネオンと明るい照明の店には商品があふれている。

1972年ごろ、私が初めてイスラエルに来た時は店に並ぶ品数も少なかった。生活必需品は安く、少し贅沢なものはべらぼうに高かった。私は工夫して暮らす生活が楽しかったし、日本の上辺だけの豊かさに比べて、むしろ堅実ですらあると感じた。誰も自分たちが貧しいとは考えず、懸命に働いていた。

1977年に労働党政権が倒れてから、本格的に経済自由化が進められ、物資が次第に豊富になっていった。貧富の差が広がりはじめたのはそのころからだ。特に90年代後半はハイテク産業が躍進して驚くほどの高給取りが増え始め、どの産業でも取締職や上級職の給料がむやみに上昇していった。

半面、2000年までの10年間に、最低所得を補完する補助金が給付された人口は3倍に増えた。労働福祉省と国民保険機構が出している「2002年度貧困白書」は国民の20%近くが貧困ライン以下の生活をしているという結果を報告している。(貧困ラインというのは国民保険機構が国民の半分がそれ以上を得ているという純所得の2分の1と便宜的に決めている数字である)。2001年には4人家族で月11万円程度の純所得にあたる。当然これ以上の収入を持つ人が楽に暮らしているわけではなく、自らを貧しいと感じている人の数はもっと多い。不平等感は社会に広がっている。

アル・アクサ・インティファダが始まったのが2000年。治安悪化はまず観光産業に打撃を与え、他の分野にも及んでいく。しかも、これまでイスラエル経済をリードしていたハイテク産業にかげりが出てくるのがこのころであり、イスラエル経済は厳しい不況の時代に入っていった。

倒産が増え、失業者が増え、地方自治体では公務員に給料が支払えないところまで出た。国家予算は軍事費と治安維持の費用で圧迫され、すべての分野で緊縮財政を強いられた。老齢年金や児童手当が削減され、弱者へのしわ寄せがますます大きくなっていく。そして、中産階級からの脱落も増えていった。

弱者救済のボランティアが活躍することはすばらしい。しかし、民間の慈善食堂や一時的な食糧配給で問題が解決するわけではない。問題は国家の政策であるし、それを可能にする国家財政である。平和は国民的経済発展の基盤でもある。

参照

  • 「月刊イスラエル」2004年5月号に掲載

著者プロフィール : 辻田 真理子(つじた・まりこ)

1971年同志社大学を卒業し、ヘブライ大学留学。テルアビブ大学、ヘブライ大学で日本の政治と現代史を教える。2007年帰国し、現在伝道師。

この記事を書いた人

日本イスラエル親善協会 事務局