滞在していた頃、イスラエルには本格的な野球場がなかった。一方テニスコートはたくさんあった(正確な実数は分からないが)。

住んでいたエルサレムの中心部から半径3キロ以内に、私の利用したテニスクラブだけでもスコープス山地区、マルハ地区、YMCAクラブ内、ジャーマンコロニー地区、国連の施設内と5箇所もあった。テニスコートの数は1980年代あたりに急増したらしい。

テニスは盛んなスポーツのようで、男子プロテニスツアー(ATP)の上位にランキングされている選手も常時おり、女子プロテニスツアー(WTA)でも現在上位ランキング選手がいる。ただ選手として伸び盛りの20歳前後に兵役に従事することが多く、才能を伸ばす機会が奪われてしまう悩みもあるらしい。

私が習ったコーチは50歳代のおじさんコーチだった。印象的だったのはサーブの指導の時、「銃のように構えて」と言うことだ。ラケットを腰の辺りで相手に狙いを定めて銃のように構え、それからサーブのトスをあげるのだ。彼の言う「銃のように構えて」は、テニスラケットだから小さな拳銃ではなくマシンガンに例えていたのかなあと今もサーブのトスの前に思い出している。

ところで野球のスタジアムがなかったイスラエル。当時、子供の学校のアメリカ人のお父さんたちが、小さな子供たちに野球をさせようと近所や知人のあちこちに声をかけた。

そして当日空き地に集まった子供たちは、なんと十人十色のいでたちだった。スカートをはいている女の子、サンダル履きの少年、どう見ても運動しようという気のない子。と思えば、りっぱな自分専用のグローブを持ったアメリカ少年。どうなることやら。お手伝いに来た青年も運動神経はよさそうだが、どうも野球をあまり見たことがないようだ。

結局ソフトボール部の経験がある私がピッチャーをする羽目になり、野球を知らない子供たちにルールを教えながらのスタートだった。スカートをはいて来たイスラエル人の女の子はベースボールという言葉は知っていてもどんなスポーツかよく知らずに参加したようだった。

その後空き地での野球練習会は週1回のペースで続いた。あれから11年。あの少年少女は野球空白地帯のイスラエルで興味を持ち続けてくれていたのだろうか。

今回、ネットの情報を調べてみるとなんと2007年にイスラエルでも6チームでプロ野球リーグが発足したとあった。いつの間にか野球が発展していたようだ。観客席(スタンド)つきのスタジアムではないけれど、プロ野球リーグ用の野球場も出来ていた。

が、2008年以降は資金難でリーグも開催されず運営は厳しいそうだ。実際 ヨーロッパなどへ、野球普及のために日本の関係者が指導に出かける話題は時々耳にするけれど、それでも人気スポーツとして定着するのはなかなか難しいらしい。

だとすればエルサレムの空き地で、アメリカ人や日本人の野球好きの父親や母親が子供たちと細々と草野球をやっていたことは、2007年のプロリーグ発足を考えれば草の根レベルとしてはまずまずの紹介だったのだろう。

著者プロフィール : 石田 恵子 (いしだ・けいこ)

1995年から1998年まで、夫の転勤に伴いエルサレムに滞在。現在埼玉県在住の主婦。