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エルサレム市街(写真提供 : 著者)

1番

山々の空気は葡萄酒のごとく澄み
松の香は 鐘の音とともに
黄昏の風にのる
その内に城壁をいだき
ひとりたたずむ その町は
樹と石がまどろむとき
夢の中に捕らわれる

(繰り返し)

黄金のエルサレムよ
銅と光のエルサレムよ
わたしはあなたの調べを奏でる
竪琴ではないか

2番

いかにして貯水槽は乾き
広場や市場は空になってしまったのか
旧市街の神殿の丘を顧みるものは
一人もいない
岩の洞窟には風の音が響き
エリコを通って死海に下るものは
一人もいない

3番

しかし今日 わたしはあなたに歌を捧げ
冠を結ぶために来た時
わたしはあなたの子の最も若いものより小さく
あなたの詩人たちの最後の者より小さく感じた
あなたの名はセラピムの口づけのように
わたしの唇を焦がすだろう
もし 全てが黄金につつまれる
このエルサレムを わたしが忘れるなら

4番

ああ今 わたしたちは貯水槽に
この市場に、この広場に 帰ってきた
旧市街の神殿の丘には
角笛の音が響きわたる
岩の洞窟には
幾千もの太陽が輝いている
さあ エリコを通って
再び死海へ下ろう

独立記念日の歌謡フェスティバルをきっかけにブレーク

「黄金のエルサレム」は1967年の独立記念日にもたれた歌謡フェスティバルで歌われたのをきっかけに、全国民に愛されるエルサレムの歌となりました。その1カ月後、6日戦争の勝利によって1900年間ユダヤ人が祈りつづけてきた祈りが成就し、エルサレムは回復しました。

この歌は1967年ナオミ・シェメル(1930‐2004)さんが作詞作曲しました。私は1996年イスラエル留学時にナオミ・シェメルさんにお会いする機会があり、彼女に当時のことをお話しいただきました。

「私は当時のエルサレム市長テディ・コレックから『今年の独立記念日に歌謡フェスティバルがある。その中で最後審査している間、会場の皆で歌える「エルサレム」の歌を探してきてほしい』と友人のギル・アルデマを通して依頼されました。

私はどういう歌がいいのか?と考えているいるうちに、学生のときに学んだラビ・アキバの話を思い出しました。貧しく無学なアキバでしたが、奥さんのラケルに『聖書を学んで成功したら、あなたにエルサレムの形をした金細工をあげる』と約束しました。このエルサレムの形をした金細工という言葉が「黄金のエルサレム」です。これを題名にして歌を完成させました。

フェスティバルの当日、参加曲はバンドとか伴奏が派手なものが多い中、最後審査をしている間に、当時20才という若さのシュリー・ナタンが、白いスカートをはいて1台のギターを持って舞台に現れました。

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「黄金のエルサレム」の一声を放ったときから、この歌は皆の心を捉えました。当時はアラブ人とユダヤ人の関係が悪く、エルサレムの歌を歌うことはタブーとされていたので、一層皆の心を引き付けました。フェスティバルがすべて終わったとき、テディ・コレック市長が予定外に『もう一度あの歌を歌おう!!』と叫びました。そして再びシュリーが歌うと、観客はもうすでに繰り返しのところはみんなで歌えるようになっていました。

ちょうどその頃、エジプトのナセルが開戦の動きをしていましたが、歌謡フェスティバルの翌日からは、緊迫した情勢を伝えるニュースと「黄金のエルサレム」の歌がラジオから毎日流れていました。3週間後、6日戦争が始まるとイスラエルは歴史的勝利をおさめ、西の壁が開放されました。兵士たちがその前で真っ先に「黄金のエルサレム」の歌をハミングしました。」

そう語り終えるとナオミさんはピアノで「黄金のエルサレム」を弾いてくださいました。

この「黄金のエルサレム」は、イスラエルにとって重要な意味を持つ歌で「第2の国歌」として今でも尚イスラエル国民に親しまれています。

この記事を書いた人

村上義弥
1960年生まれ。1983年~1984年イスラエルに留学し、イスラエル音楽に心惹かれるようになる。1996年、ナオミ・シェメル、エフード・マノール、ドヴ・ゼルツェル氏等、約30名のイスラエルの音楽家を半年間かけて取材。その後も2003~2006年、2008年と続けて音楽家取材でイスラエルを訪問する。またイスラエルのギター奏者の第1人者オーリー・ハルパズ氏よりギターを習得。現在広告代理店勤務。