何歳になれば人はその社会の一員と認められるのだろうか。日本では成人式は20歳である。なぜ、20歳なのだろう。大正末期、普通選挙権が25歳からの男子に与えられ、それが戦後20歳以上の男女に拡大したからなのか。「働く」ということを基準に、「社会人」という呼称が年齢の異なる人に冠せられているのも、不思議な現象である。

ユダヤ教の成人式は男子がバル・ミツバとよばれ13歳、女子がバット・ミツバとよばれ12歳である。ミツバとはユダヤ教の戒律のことであり、戒律を守ることが出来る年齢が成人だとされる。ここでの「成人」という言葉は、結婚可能なとか、生計を立てられるとか、選挙権があるという意味では使われていない。神の前に戒律を守る、すなわち、自分の行為で許されることと許されないことを認識し、自分の行動に責任を持てる年齢に達したという意味での「成人」と考えられるのだ。

ユダヤ教の儀式としては13歳になった男子はシナゴーグ(ユダヤ教会)において初めて聖書を朗読する。ユダヤ教では毎週読まねばならない聖書の箇所が決められているが、自分の生まれたその週に読まれた聖書の箇所を、正式な読み方をラビに個人的に教わり、暗誦するのである。会衆の前に一人前の信者として初めて登場する晴の舞台。ユダヤ教徒としての数に加えられる日である。

だが、この「成人式」は単に宗教的な意味を持つだけではなく、社会的にも大切である。不思議なことに、この日を境にこれまで子供っぽかった男の子や女の子が、なぜか急に頼もしくなる。「一人前」としての自覚が、子供を大人に成長させるのかもしれない。そういう意味でも成人式の披露宴は結婚式さながらに盛大なものになる。私の友人はある劇場の中庭を借り切り、そこに室内楽の生演奏を用意、サッカーファンの息子のために、彼の応援チームの花形選手を招いて、息子へのビックリ・プレゼントにしていた。この時に招待されたのは200名近くだった。

年々、パーティが派手になって、場所もホテルのホールや、結婚会場のようなところなど立派なところが多くなるし、どんどん商業化されていく感は否めない。しかし、もっとも大切なのは、家族、親族、それに子供にかかわる人々が一堂に集まって子供の「成人」を祝うことである。子供のそれまでの成長過程をまとめたビデオやアルバムなども用意し、13歳や12歳になった主人公のお礼のスピーチがなされる。緊張した面持ちで、大人への仲間入りの決意を聞くのはすがすがしい。

自分が社会の一員であるという自覚を、こうした儀式を通じて子供に持たせるのは重要である。日本でも昔は13歳で元服を祝った。家督継承可能な年齢が13歳とされたからであろう。では現在、20歳で成人式をする意味は何なのだろう。

義務教育を「社会の成員となるための最低限の知識を与える年限」だと解釈すると、日本でも15歳か16歳を「成人」としてもいいのかもしれない。義務教育は何年であるかという議論ではなく、どんな種類の人間をこの社会の一員として生み出したいのか、という基準にしたがって義務教育の内容が語られるべきだろう。たとえ、頼りなく見えても、周囲が「成人」として扱っていくことで、子供たちも「一人前」に育っていく。

今、考えねばならないのは、われわれ大人がどんな社会を好ましいとするのかということだろう。私にとっての好ましい社会は「私にとってもあなたにとっても生き易い社会」だ。異質な他者を排斥したり、抑圧したりしない社会。それは同時にあるがままの「私」を受け入れてくれる多様な社会である。

日本国民の持つ「日本的要素」にしても、それぞれみんな少しずつ異なっているはずである。それぞれに異なる「個性」を育てられるような教育を終えて、大人への通過儀式ができるようになるといいのだが、と思う。

参照

  • 「月刊イスラエル」2007年5月号に掲載

著者プロフィール : 辻田 真理子(つじた・まりこ)

1971年同志社大学を卒業し、ヘブライ大学留学。テルアビブ大学、ヘブライ大学で日本の政治と現代史を教える。2007年帰国し、現在伝道師。